倭の五王の「武」と同一視され、古代天皇の専制的、英雄的な性格の頂点に立っていたとされる天皇です。国内では豪族を武力で制圧し、朝廷の権威を強化しました。また、百済からの渡来人を重用し、外交においては宋に朝貢し、朝鮮半島への影響力を強めようとしました。

生まれ: 西暦418年, 日本
死去: 西暦479年8月7日, 奈良県 桜井市
子女:
清寧天皇、 春日大娘皇女、 磐城皇子、 春日娘子
配偶者: 吉備稚媛 (西暦457年 - 西暦479年)
両親:
允恭天皇、 忍坂大中姫
孫: 武烈天皇、 手白香皇女、 橘仲皇女
本名: 雄略
大長谷王(オオハツセノミコ)こと21代 雄略天皇は
長谷朝倉宮(ハツセノアサクラノミヤ)にて、天下を治めた。
雄略天皇は
大日下王(オオクサカノミコ)の妹の
若日下王(ワカクサカノミコ)を妻としたが子どもはいなかった。
女好きの残虐な暴君ともされる。
また、都夫良意富美(ツブラオオミ)の娘の
韓比売(カラヒメ)を妻として産んだ子が白髪命(シラカノミコト)(=後の
清寧天皇)。
次に生まれたのは若帯比売命(ワカタラシヒメノミコト)だった。
雄略天皇がまだ妻にする前に、日下にいた
若日下王(ワカクサカノミコ)のところへ訪れたとき。
屋根の上に『堅魚木(かつおぎ)』をつけた宮殿に似せた家があったので誰の屋敷かたずねたら「
志機大県主(シキノオオアガタヌシ)の家」だというので、この家を焼いてしまおうとした。

すると主の志機大県主(シキノオオアガタヌシ)が慌てて貢物として布をかけ鈴をつけた白い犬を献上した。
そこで火を点けるのをやめてその犬を受け取り、若日下王(ワカクサカノミコ)へ結納の品として渡した。
若日下王(ワカクサカノミコ)はそんなことより、東にある大和の国から太陽を背にしててここまできたことに驚いて、「後日改めてこちらから宮廷へおつかいします」と伝えた。
ある日、雄略天皇が遊びにでかけたとき、三輪川で洗濯している綺麗な乙女と出会ったので名前を聞いて「いずれ呼び寄せるから何処へも嫁に行くな」と言って宮廷に帰ったことがあった。
その時の乙女、
赤猪子(アカイコ)は、天皇の命令を守ってたけど、そのことを忘れられていて長い年月が経ってすっかりお婆さんになってしまった。
あれから80年もたってしまったけど、せめて待ち続けていたことは天皇に伝えたいと思い赤猪子(アカイコ)はたくさんの貢物を持って宮廷に行った。
天皇は驚いて「なんと言って謝ったらよいかわからない」と言って、号泣する赤猪子(アカイコ)にたくさんの引き出物を渡して帰らせた。

またある日、雄略天皇が吉野宮(ヨシノノミヤ)に行くときに吉野川の浜にいた美人の乙女を妻として連れ帰った。
その後また吉野に行くときにその乙女も連れていき、出会った場所に座って琴を弾き、乙女に舞を踊らせた。
さらに、吉野でアブに刺されたところ、トンボ(蜻蛉)が来てそのアブを食べて飛んでいった。
それに気を良くしここを蜻蛉島(アキヅシマ)と名付け、この野を阿岐豆野(アキヅノ)と言うようになった。
ある時、雄略天皇は狩りのため葛城の山に登った、すると大きな猪が現れた。
鏑矢(かぶらや)という音のなる矢を射ったが、猪は唸り声をあげながら追ってきたので恐ろしくなって木に登った。
後日、また葛城の山に登ったとき、たくさんの家臣たちを引き連れ、全員に紅い紐をつけた青摺(アオズリ)のお揃いのいでたちをさせていた。
すると向かいの山の尾根に全く同じ天皇の行列ができていたので、この国に自分以外に王はいないのにと問うたが、相手も全く同じ質問を返してきた。
天皇は怒って矢を放とうと構えたら、相手も同じように矢をかまえたので、お互い名を名乗って矢を射ることにしたところ、相手は「悪い事も一言、善い事も一言で言葉を放つ
一言主大神(ヒトコトヌシ)である」と名乗った。

天皇は一言主大神(ヒトコトヌシ)が自らお姿を現されるとはといたく恐れ入って、身につけた太刀や弓矢、家臣の衣服も全て脱がせ献上した。
一言主神(ヒトコトヌシ)は手を叩いて喜んで登山口まで見送ってくれた。
雄略天皇は
丸邇(ワニ)の佐都紀臣(サツキノオミ)の娘の
袁杼比売(オドヒメ)と結婚しようとして春日へ行った時、本人とばったり鉢合わせたが、袁杼比売(オドヒメ)は恥ずかしがって岡に逃げ隠れてしまった。
「金属の鋤(スキ)が500個あれば乙女が隠れた岡を、鋤でならして見つけ出せるものを」と、歌を歌ったのでここがて金鋤岡(カナスキノオカ)となった。
また、天皇がよく茂った榊の下で宴会をしていたとき、三重の采女(ウネメ)(女官)が大きな盃を献上したんだけど、そのお酒の中に榊の葉っぱが落ちて浮いていることに気づかなかったからそのまま天皇に渡してしまった。

天皇はそれを見て采女(ウネメ)を打ち倒し、殺そうと刀を首に突きつけた。
すると采女(ウネメ)は助けてくれと、歌を歌った。
お酒に落ちた榊の葉はまるで、浮いた油のように漂って水がコオロコオロとしている、まるで神世七代(かみのよななよ)の子が舞い降りた
伊邪那岐命(イザナギノミコト)と
伊邪那美命(イザナミノミコト)が水をこおろこおろと掻(か)き混ぜて作った淤能碁呂島(おのごろじま)の、あの神話のようでないですかと。
この歌で許された采女(ウネメ)には多くの褒美を送った。
天皇は124歳で亡くなった。
陵は河内の多治比高鸇(タジヒノタカワシ=大阪府羽曳野市島泉)にある。
雄略天皇は、第21代天皇で、
允恭天皇の皇子とされる人物です。古事記や日本書紀には、卓越した政治的才能と軍事的センスを持つ一方で、残忍で冷酷な側面も持つ英雄的な性格として描かれています。大和政権の体制を専制的なものへと転換したとされ、有力豪族を排除し、大伴氏や物部氏を重用したと伝えられています。また、「
倭の五王」の「武」に比定される説もあります。
強力な天皇権力:雄略天皇は、葛城臣や吉備臣などの有力豪族を排除し、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制を設け、
大伴氏や
物部氏を重用することで、天皇中心の政治体制を確立しようとしました。
内政・外交での強硬姿勢:吉備の豪族を征討し、朝鮮半島に出兵するなど、内政・外交の両面で強硬な姿勢で臨んだとされています。
文学作品への登場:『万葉集』や『日本霊異記』など、古代の文学作品に登場し、その治世が国家形成の重要な画期として評価されていたことがうかがえます。
「大悪天皇」:記紀では、残虐な行為や冷酷な性格が描かれており、「大悪天皇」と呼ばれることもあります。
「倭王武」との関連:478年に宋に使いを送った「倭王武」と同一人物であるとする説があります。
- 一言主大神(ヒトコトヌシ)
- 20代天皇 安康天皇(あんこう)
- 22代天皇 清寧天皇(せいねい)
- 長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)は、古墳時代後期に大和朝廷の勢力拡大を象徴する宮殿です。伝承地は奈良県桜井市黒崎や岩坂で、脇本遺跡の発掘成果からも候補地とされています。
- 大日下王(おおくさかのみこ/おおくさかのおう)は、仁徳天皇の皇子であり、皇位継承をめぐる争いの中で暗殺された悲劇的な皇子。
- 若日下王(わかくさのみこ)は皇位継承争いの渦中に巻き込まれた悲劇の皇女。大日下王の妹
- 韓比売(からひめ)(訶良比売とも)は清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)の母
- 志機大県主(しきのおおあがたぬし)は、河内国志紀郡を本拠とした古代豪族で、天皇の御殿に似せた家を建てたことで怒りを買いましたが、白犬を献上して許されたという伝承が残っています。
- 赤猪子(あかいこ)は、不思議な恋の相手として、引田部赤猪子(ひけたべのあかゐこ)である。 三輪山(奈良県桜井市)に接する川で、衣を洗う美しい童女として登場
- 丸邇(わに)氏は、古代大和盆地東北部を拠点とした有力豪族で、天皇の后妃を数多く輩出した氏族です。和珥氏・和邇氏とも表記され、春日氏や小野氏などに分かれていきました。
- 袁杼比売(おどひめ)は、丸邇(わに)の佐都紀臣(さつきのおみ)の娘で、雄略天皇の妃の一人です。雄略天皇の「百枝槻(ももえつき)」の宴で、天皇が詠んだ歌に応える歌を詠み、大御酒を献上したことで知られ、天皇に献身的な愛を歌った歌が伝わっています。
- 倭の五王(讃・珍・済・興・武)は、5世紀に中国南朝へ朝貢した大和王権の王たちで、『宋書』倭国伝に記録されています。彼らは中国皇帝から官位を得ることで国際的な正統性を確保し、朝鮮半島南部への影響力を強めようとしました。
