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名所めぐりは過去に行ったことのある土地の紹介です。

どこへ行ったのか忘れてしまうので独遊庵の名所めぐり

空海「弘法大師」(くうかい・こうぼうだいし)

平安時代初期の僧。諡号は弘法大師。
真言宗の宗祖。俗名は佐伯 眞魚。
日本天台宗の宗祖である最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。
能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
【空海と弘法大師の関係】
空海は平安時代初期の僧で、俗名は佐伯眞魚(さえき の まお)です。
921年に「弘法大師」という諡号(贈り名)が下されました。
日本国内での仏教の布教活動に力を注ぎ、高野山に金剛峯寺を創建したことでも有名です。
書にも優れ、橘逸勢、嵯峨天皇とともに日本三筆の一人に数えられています。
空海「弘法大師」(くうかい・こうぼうだいし)
*空海と最澄
空海と最澄は、平安時代に唐から留学して日本に仏教を持ち帰った僧侶で、日本独自の仏教を確立しました。
【人物像】
空海は真言宗を開き、高野山に金剛峯寺を建立しました。
最澄天台宗を開き、比叡山に延暦寺を建立しました。
【教え】
空海は、この身そのままで自然神との一体化による即身成仏を説きました。
最澄は、現世と来世における善行の積み重ねによる成仏を説きました。
【共通点】
両師とも、古来より根強くあった日本人の山や木に対する信仰を受け継いで、神と仏の融合をはかりました。
両師とも、日本人の倫理観や精神の拠りどころとして定着させました。
【留学】
空海は私費で密教を究めようとする学問僧として唐に渡りました。
最澄は国費で通訳を連れ、1年で還って来られる還学生として唐に渡りました。

四国の八十八か所のお遍路の開祖となるなど、日本中にさまざまな伝説を残しています。

【空海の生涯】
空海宝亀5年(774)、讃岐(さぬき)の国(現在の四国香川県)で誕生され、幼いころには“真魚(まお)”と呼ばれました。
7歳の時に仏門の道に入ることを願い、家の近くの山から身投げをすると天女が表れ、空海を抱き留めました。
15歳で都に出て勉強に励み18歳で最高学府の「大学」に入学し勉強に専念しました。
しかし、大学で勉強することは世の中のためにならないと悟り、大学を辞め修行を始めました。

厳しい自然の中で修業をするため四国の山や洞窟に訪れました。のちの「お遍路」の原型となります。その後、大自然の中で修行をはじめることになりますが、そのきっかけは、一人の沙門(しゃもん:仏教の修行僧)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されたことでした。

虚空蔵求聞持法という修行を行い「空海」と名乗る
「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、あらゆる経典を記憶できる力が得られるとされる修行です。虚空蔵菩薩が知恵や記憶を司る仏であり、村松虚空蔵尊が十三詣りの聖地と呼ばれる所以でもあります。
この行は百日間ないし五十日間で終わらなければならず、行者の厳しい負担は想像を絶するものです。
その修行のおり、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されています。この瞬間、空海さまは悟りを開いたといわれ、修行で籠っていた洞窟からの視界の中から見えるのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝えられています。
弘法大師
真言密教を確立し日本中に広めました。
延暦23年(804)朝廷から命を受け、遣唐使として唐(当時の中国)に渡りました。

空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船。4隻の船団のうち、第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであり、とても大変な航海だったことがうかがえます。
空海の乗った船は、途中で大きく航路を逸れ、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆し、その書を見た長官がただものではないと考え、長安入りを許されたという逸話が残っています。
本来の留学期間は20年間を予定されていましたが、それをたった3年間で終えたことからもその凄まじさが伺えます。経本や新訳経典など多数のものを与えられましたが、そのほか、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、収集したとされています。

遣唐使として長安に渡り、さまざまなものを持ち帰る
大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在しました。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していました。
日本に帰った空海は日本中にさまざまな伝説を残すこととなった。

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