真宗誠照寺派(しんしゅうじょうしょうじは)
上野山誠照寺(本山)を中心とする浄土真宗の一派で、 「真宗十派」の一つとして現在も独立した宗派体系を保っています。
越前国を中心に中世〜近世に大きく発展した「真宗十派」の一つに数えられます。
- 承元元年(1207年)、親鸞聖人が越後国(新潟県)へ流罪となる途中、越前の上野ヶ原(現在の鯖江市近郊)に立ち寄られました。その地の豪族であった波多野景之が聖人の熱心な信者(法名:空然)となり、教えを仰ぐための「車の道場」を開いたことが当派のルーツです。
- その後、景之は親鸞聖人の第5子とされる道性(どうしょう)をこの道場に迎えました。道性やその息子の如覚(じょかく)らの時代に教えが北陸一帯から美濃(岐阜県)まで大きく広まりました。当派は仏の徳を日本語でたたえる「和讃」を重視したため、古くは「和讃門徒」と呼ばれました。また、近隣の専照寺(福井市)や證誠寺 (鯖江市)とともに「三門徒教団」という有力な真宗グループを形成しました。
- 永享9年(1437年)、後花園天皇より「誠照寺」の勅願寺号(国家の祈祷所としての格付け)と、後に山門(四足門)の勅許を賜り、当派の勢力は全盛期を迎えます。
- しかし、戦国時代に入ると、勢力を急速に拡大した本願寺派(一向一揆)と激しく対立することになります。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、織田家重臣の柴田勝家側に味方したため、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の兵火に遭い、境内が焼き討ちされるなど大きな打撃を受け、多くの末寺を失いました。
- 江戸時代には天台宗の支配(傘下)に入ることで存続を図り、宗勢の復興に努めました。明治11年(1878年)に明治政府の許可を得て独立し、現在の「真宗誠照寺派」として歩み始めました。
◎越前四箇本山
・
毫摂寺 ―
真宗出雲路派:善鸞系伝承・青蓮院院家
*三門徒・
専照寺/如導上人の系統―
真宗三門徒派 :地方門徒の中心として発展
・
誠照寺/如覚上人―
真宗誠照寺派:親鸞の越前説法地に起源
・
證誠寺/道性上人―
真宗山元派
- 本尊:木造阿弥陀如来坐像 弥陀如来(あみだにょらい)
本山:誠照寺(じょうしょうじ)
末寺数:約70〜80カ寺
創始:1212年に親鸞聖人が山科に草庵を結んだのが起源とされる

脇掛について
お仏壇の最上段、本尊である
阿弥陀如来の両脇には、九字名号と十字名号をおまつりします。
右の脇掛(九字名号):「
南無不可思議光如来」(なむふかしぎこうにょらい)と書かれており、「私たち人間では思いもよらない(思議)大いなる仏様に帰依します」という意味です。
左の脇掛(十字名号):「
帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)と書かれており、「滞ることなく十方を照らし、どんな隅々の者までもお救いくださる仏様に帰依します」という意味です。
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